王 平 子均(何平)
所 属 魏→ 蜀
生没年 ?~248
出身 巴西郡宕渠県
タイプ 武人
別名 何平
一族 子:王訓

  もとは地方部族(民族?)の一員だった模様。最初は魏につき、後、蜀に降った。

 ものごとを冷静にとらえ正確に判断できる人だったようで、記録にある限り、彼が大敗を喫した戦はない。こいつに任せてお けばまぁ間違いはない、という非 常に信頼のおける使いやすい人物だったのではないか。

 文字が読めなかったのに漢中の太守をつとめるまでになったことは特筆に値する。さらに、歴史書を音読させ、それに対する 指摘が的確であったり、口述で作 成させた文書に筋が通っていたあたり、かなり理解力や頭の整理、本質を捉える能力が高かったようだ。
 それでいて文字を覚えようとしなかったことから、民族的な意識又は頑なさが窺える。文字がなくても事足りたので不要なものにはパワーは割かないというス マートさも見え隠れする。

 また、規則を厳守し、冗談は一切口にせず、朝から晩まできちんと座り、まるで武将の感じはしなかったという。真面目では あるが厳しすぎず、覇気はそれほ どなく、やや穏やかな印象を与える人物のように思える。
 正史には偏狭で疑い深く、軽はずみでもあったと記述されているが、上記のような印象と、彼の事跡をみるに、とてもそうは思えない。

 魏との攻防の拠点である漢中を任された、突出した部分はないが安定した人物というイメージだ。

事跡

 228年、街亭にて馬謖の先鋒隊として参加。馬謖が水路を捨て山上に陣を構えたのを何度も諫めるが聞き入れられず、馬謖 は張郃に大敗。王平だけは千の兵をもって踏みこたえたため、伏兵を怪しんだ張郃は近づこうとせず、無事に退却できた。
 馬謖は処刑され、他将も刑罰をうけたが、王平だけは功を認められ昇進した。

 231年、諸葛亮が祁山を包囲した際、張郃の攻めを固い守りで防ぎきった。

 234年、諸葛亮が没し、魏延が謀反を起こした際相対し、魏延の非を叫んで魏延の兵たちを四散させた。魏延は身一つで逃 走した。この功で後典軍・安漢将軍に昇進した。

 車騎将軍呉懿の副将として漢中に留まり、漢中の太守を兼任した。

 237年、安漢侯に爵位を上げられ、呉懿に代わって漢中の総指揮官となった。

 238年、前護軍となり、蒋琬の大将軍府の事務を司った。

 243年、蒋琬が病のため涪に引いた際、王平を前監軍・鎮北将軍に任命し、漢中の指揮をとらせた。

 244年、魏の大将曹爽が10万余で攻め寄せてきた際、漢中の守備兵は3万に満たなかったが、部下の進言の誤りを正し、 よく耐えた。結果、涪の諸軍と大将軍費禕が間に合い、魏軍は退却していった。

 「前に王平・句扶あり、後に張翼・廖化あり」と賞賛されたという。



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